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俺どうなっちゃう?

オタク「愛について」

(この記事は、2022年9月頃の下書きを再構成したもので、現在(投稿日)の俺の気持ちやテンションとは異なる場合があります(新たに記事を書くにあたって、先に書いていた記事を消化したかった))

 

以下本文

 

 

「小魚アーモンドは小魚の苦みとか渋みをアーモンドで上手く打ち消すのが旨いだけ」と最初の記事に書いていた俺が、小魚だけでも美味しいと思うようになったし、労働について少しだけ向き合うようになった。

 

就活が本当に迫ってきていること、2週間のインターンに参加したこと、友人が休職したり退職に向けて動いたりしていることなどがきっかけで、労働に向き合うようになった。その結果、について一定の結論が導けた(急に壮大すぎる)。これは、俺が個人的に考えたことというよりは、友人との会話を通して構築された考えで、半分くらいは友人の受け売りとも言える。

 

結論としては、「愛の効能ってめっちゃデカいし、人生を生き抜く上で重要かも」という感じ。

 

 

インターンで社会人と同等の生活リズム(週の5/7で1日の1/3を労働に費やす営み)をして、これをほとんどの人間が何十年も実行している/することになるという事実に狂っちゃったのが始まり。こんな生活リズムが野放しにされてるのおかしいよ。最初に週休2日・1日8時間労働って決めた人がこの世で一番の悪者だと思う。たとえ神様仏様が許してもこの俺様が許さねぇ!ってコト

 

ところで、(心地よく)生きるためにはお金が必要で、お金を得るためには基本的には労働する必要がある(これが許せない!(俺に無償でお金をくれ!))ので、俺が生きるには労働をする必要があるということになる。残念!「別に生きなくてもいいんじゃない?」という感想もあると思うけど、生きるのをやめるのには別の困難が伴うので、今は考慮しない。

 

さて、労働するしかないとなったら、どうすれば労働を無事に完遂し続けることができるのかを考えないといけない。この世の(少なくとも日本の)ほとんどの人間がこの生活を続けていて、その大半は無事に完遂し続けているっぽいのだから、何かしらの手段はあるはず。俺の感覚では明らかにデカい苦痛を伴う営みなのに、なぜ大勢の人々がこんな狂った生活を継続できているのかと考えたら、

  • そういう生活を苦痛だと感じていない
  • そういう生活を苦痛だと感じているが、耐えている

のどちらかなんだろうという結論が出た(俺と友人の中で)。

 

前者に関しては、俺とは脳とか心身の性質が大きく異なる人間か、よっぽど自分に合った職業に辿り着けた人間なんだと思う。心身の性質をそのタイプの人間のそれに近づけるのは一朝一夕にできることではないと思うし、その性質を獲得する過程でも労働をし続けるはずだから、少なくともその間の労働は別の手法で労働の苦痛を耐える必要がある。また、自分にとんでもなくマッチした仕事が何なのかは今のところ分からないし、自分が何が好きで何が嫌いで何を楽しく感じて何を苦しく感じるのかはまだ全然整理できていないから、この路線もなかなか難しいように感じる。できたらうれしいね。

 

そうなると後者の手法を取ることになる。どういうわけで労働がもたらす多大な苦痛に耐えることができるのかをさらに考えてみると、「その苦痛をカバーするほどの楽しみが別で用意されていたり、耐えなければならないという責任/使命/を感じている」のではないかと思う(労働に耐えるタイプの人間の多数はそうしているように見える)。

 

苦痛をカバーするほどの楽しみを別で用意するというのは俺にも親しみやすい手法だし、かなりアリだと思う。でも、労働という馬鹿デカく見える苦痛を耐えるほどの楽しみを用意し続けられるのかといった不安がある。なんだか心細さを感じてしまう。まあ、こう感じてしまうのは俺が悪い(俺の心次第でそう感じなくなる)のかもしれなし、将来的にはこれでイケるのかもね。

 

もう1つの責任とか使命に関しては、簡単に言えば「〇〇のために俺は頑張るしかねえ!!!!!!!」みたいなものだと思ってる。この空欄にはいろいろなものが代入され得るのだろうけど、世の中で最も代入されているのは、人類史覇権コンテンツの双璧「恋愛」「生殖」に由来するところの「恋人」「家族」なのでは?という結論が出た。どうやら人々にとってパートナーや家族(多分こういう場合は親から見た子供?(例外はたくさんありそう))への愛(?)はなんかめっちゃ特別で強靭らしいし、それが労働の苦痛に耐えうる動機になっているんじゃないかと考えてる。強靭な愛ということなら、別にパートナーとか家族以外との間での成立することだってありそう。「推しのために俺は頑張るしかねえ!!!!!!!」とかでもいいと思う。さらには、人間に対してだけではなく、コンテンツとか娯楽に対しても成立することはあると思う。とにかく、そういった強靭な愛を燃料とした責任感・使命感を根拠に人々は労働の苦痛に耐え忍んでいるんだと思う。そして、そういう忍耐力を生み出すのが愛の重要な効能の1つなんだと想像している。

 

愛の効能に関して言えば、「苦痛をカバーするほどの楽しみ」も愛はたくさん提供している。パートナーや家族や友人に対して向かう愛なら、その人との交流が人生における楽しみになりうるし、趣味に対して向かう愛なら、それを行うことが人生における楽しみになりうる。そういう楽しみを提供することも、愛の重要な効能の1つだと言える。結局、強靭な愛を持つことができていれば、「その苦痛をカバーするほどの楽しみが別で用意されている」「耐えなければならないという責任/使命/を感じている」の両方を達成することになると思う。

 

こういったわけから、人生において愛の効能はめちゃくちゃ重要だなあと感じ始めている。この効能を活用していくことが、人生のコツのような気がしている。実際に活用できている当人らは別に意識していないような気もするけど。

 

さて、人生において愛の効能が重要なら、俺もそれを手に入れて活用したい。現状、労働の苦しみをも耐えることができるような強靭な愛を俺は持ち合わせていない。ならば何かを強く愛せばいいわけだけど、それが分からない。多分普通なら手っ取り早いのは恋愛の文脈における愛なんだと思う。コンテンツや娯楽や趣味への愛が人々のパートナーとか家族へのそれと同じくらい強いことって珍しい(スポーツ選手とかそれを生業としている人とかがほとんどかも?)と思うし、なんてったって恋愛は人類史でも類を見ない覇権コンテンツだから。

 

ところで、前回の記事で書いた通り、俺は恋愛感情を今のところ体験したことがない。だから、恋愛の文脈における強い愛を獲得することがこのままだとできない。すなわち、愛の効能を活用することができない。残念でした!

 

ならば恋愛感情を手に入れればいいんだけど、じゃあどうやって?今まで同性がほとんどの環境で生きてきて恋愛感情が生まれなかったから、異性が多い環境に身を投じてみるなどは1つの手段な気がする。なんか書いててめちゃくちゃ気持ち悪いな。知りもしない愛を求めるキモすぎる怪物の誕生。

 

そもそも、効能目的で愛を獲得しようとしていること自体が間違っている。そんな目的意識では強靭な愛なんて獲得できるはずがないと思う。しかも、効能目的で誰かを好きになろうとしたり交際しようとしたりするって相手に対してあまりに失礼すぎる。こういう感情は、自然に発露されるのを待つしかないのかも。

 

やっぱり、俺は強靭な愛の典型例である恋愛感情を持つことができず、従って愛の効能を受けることはなく、人生、とりわけ労働におけるコツの1つを不能にしたままだと分かった。

 

労働の苦痛を、俺はどうしようかな?

 

やれることとしては、頑張ってコンテンツとか娯楽とか趣味を本気で愛することか、「苦痛をカバーするほどの楽しみ」をたくさん設けまくることなんだろうなと今のところは考えている。最終的には「そういう生活を苦痛だと感じない」ような体と心を手に入れたほうがよさそう。難しいね。

 

まとめると、

  • 人生の重大な要素である労働の苦痛を処理するにあたって、愛の効能は非常に効果的で、その愛は多くの場合は恋愛感情に由来していそう
  • 俺は恋愛感情を未だ持っていないため、労働の苦痛の処理には別のアプローチを仕掛ける必要がありそう

が、現状の愛に関連して思っていることです。君はどう思う?

 

アイアイ(アイアイ)

アイアイ(アイアイ)

お猿さんなんだろ?